想い

 11月3日、文化の日。たまたま『 泣きながら生きて 』というドキュメンタリー番組を見ました。

 1989年、ある中国人男性が上海から日本へ渡ってきました。丁尚彪(てい しょうひょう)さん。上海の街角で、とある日本語学校のパンフレットを目にしたのでした。そこには入学金と半年分の授業料、合わせて42万円と書かれてありました。それは、中国では夫婦二人が15年間働き続けなくては得ることのできない多額のお金。知り合いに頼み込んで借金をし、その年の6月、当時35歳だった丁さんは日本へと渡ってきたのでした。

 丁さんは、文化大革命の嵐の中で育ち、下放政策によって農村で働かされ、多くの青年とともに学びたくても学ぶことのできない時代を生きてきたのです。日本語学校で学んだ後は、日本の大学へ進学することを目指していました。中国にいては果たすことのできない人生の再出発に賭けていたのです。

 しかし、丁さんが目指した日本語学校のあった場所は、北海道の阿寒町に位置する過疎化が進む町。働きながら借金を返して勉強をしていくつもりが、借金を返すどころか、仕事すらありません。かつて炭鉱で栄えたこの町は、過疎化を打開したいという町の事情と思惑から、町民のかわりに中国人を入れればいい、と日本語学校が誘致されたのでした。

 それでも、丁さんは借金を返さなければなりません。このまま上海へ帰るわけにはいかず、覚悟を持って阿寒町を脱出し、列車を乗り継いで東京へ。しかし、入国管理局は、“阿寒脱出者”にビザの更新を認めませんでした。丁さんは、やむなく不法滞在者の身となってしまいます。しかし、不法滞在者になっても借金は返さなければなりません。帰国したら再入国はできないため、東京で必死に働き続けます。そして、再出発への希望が消えた丁さんは、自分が果たすことのできない夢を一人娘に託そうと決意します。娘を何としても海外の一流大学へ留学させたい。見つかれば即座に強制送還という身でありながら、借金を返し終えた後も、丁さんは東京で働き続け、働いたお金はすべて上海の妻子へと送金しました。

 取材班が丁さんと出会ったのは、今から10年前の1996年。丁さん42歳、来日7年目の春のことでした。もちろん、7年間、中国へは一度も帰らず、3つの仕事をこなしながら都電が走る傍の豊島区の古い木造アパートで生活していました。壁には7年前に別れた、当時小学校4年生だった娘の写真。

 年が明けて、1997年2月。取材班は丁さんの家族を訪ねるため、東京で働く丁さんの様子を撮影したVTRを持参して上海へ。そこには8年ぶりに見る夫の姿、8年ぶりに見る父親の姿が映っていました。娘の名前は、丁琳(てい りん)。中国屈指の名門校、復旦大学付属高校3年生。大学受験が目前にせまる中、アメリカへ渡り医者になりたいという夢を持っていました。それから半年後に、ニューヨーク州立大学に合格し、アメリカ留学が決定しました。

 出発の日の朝、上海空港で一人去っていく娘の後姿に、母親は号泣しました。琳さんを乗せた飛行機はニューヨークへ向かう途中、東京で24時間のトランジットがありました。その24時間を使って、8年ぶりに父と娘は再会することに・・・・・・。

 『 泣きながら生きて 』 は、上海、東京、ニューヨーク … 3 ヵ所へ散っていった 3 人家族の “ 壮絶な 10 年間の三都物語 ” ですが、その行間と映像間には複数の複合的なテーマが込められていました。18 歳の旅立ち、別れ、再会 … 各シーンに滲む涙。ドキュメンタリー版、究極の “ ラブストーリー ” でした。

 そして、制作スタッフが、制作する上で密かに交わしていた合言葉は …。「 全国から、自殺者を 10 人減らすこと 」。 泣きたいほどに美しい、“ 10 年間の涙の記録 ” でした。

 時代 (歴史認識) を超えていくこと … 国境を超えていくこと … たとえ、泣きながらでも …。困難の中で、「 新しい時代 」へ向かおうとしているすべての人々への、この番組からの贈りものです。

 丁さんの苦境に立たされても、いつも仕事や日本に対する感謝の気持ちを忘れず、希望を持って生きる姿からたくさん学ぶことができました。また、『親は子どもの犠牲になるのは当たり前。』という子どもに対する想いは、子どもを育てる者にとって、大きな勇気を与えてくれるものでした。

 15年ぶりに上海へ帰る丁さん。日本を離陸する飛行機の中で手を合わせる姿を見て、涙が・・・。

(この文章は、番組のHPの解説に学級通信用に手を加えました。)