小学生の自分への思いを乗せて 1

 2004年12月、県庁の1階ホールのクリスマスコンサート。その前の年、同僚のR先生が、このコンサートに出演するということで行き始めたコンサートです。この年からR先生は出演しなくなりましたが、ファンになったゴスペル星組やトリニティというグループの歌を聴くために、わたしは、昨年まで英語の先生をされていたアンジェラ先生ご夫妻を誘って来ていました。

 その時も、すばらしいゴスペルの歌声を聴けたとても楽しいものでしたが、ふと左前を見ると、どこかで見たことのある顔の女性が座っていました。もう80歳ぐらいになっていると思われるその方は、わたしの小学校5、6年の時の担任のA先生でした。

「A先生ですか。A小でお世話になったCatです。」

心配しながらも思い切って話しかけたのですが、先生はわたしのことを覚えてくれていて、ホッとしました。また、今もお元気でコンサートに来られることもとてもうれしかったです。A先生とはわたしが高校合格の報告に行ったとき以来、30年ぶりの再会だったからです。A先生は、当時きびしくもあり、やさしくもあるとてもいい先生でした。心に残る思い出は、楽しいことばかりでしたが、わたしにとって一つだけ苦い思い出が残っています。

 A先生が担任をしてくださっていた時、わたしたちに、毎日『生活メモ』という日記を書かせてくれていました。でも、わたしは文章を書くのが大の苦手で、先生にチェックされないことをいいことに、毎日さぼっていました。でも、学期末のある日、とうとう先生にチェックされる日がやってきました。毎日まったく白紙状態のわたしの『生活メモ』を見て、叱った先生は、残って日記を書くように言いました。わたしは、一日分だって書くのがたいへんなのに、何日分も書くのはとてもむずかしく、多分最後まで日記のスペースを埋めるのができなかったと記憶しています。

 それがA先生とのたった一つの苦い思い出だったのですが、教師になってからもわたしにとって文章を書くのが苦手なことには変わりがありませんでした。最初に勤めた学校では、周囲の何人かの先生が、自作の学級通信の交換をしていました。わたしもその仲間に入りたかったのですが、文章が書けなくて、学級通信を発行することができませんでした。次に勤めた学校で、同学年に毎日学級通信を出している先生がいました。また他にもたくさんの先生方が学級通信を書いていました。わたしもまねをして出しましたが、何をどう書いていいかわからなかったし、やっと書けても「この文章を読んだ人はどう思うだろう」と悩んでいるうちに1週間以上たってしまい、結局発行できないまま、終わったりしました。毎年定期的に発行しようと思っていた学級通信は、文章を書くことが苦手なわたしにとって、いつも途中で挫折することになりました。最悪の時は、1年に1号だけで終わったこともありました。そんな状態が何年も続いたわたし。だから、若くして定期的に学級通信を出している先生を見るととても尊敬してしまいます。

 教師になって13年。小学生の時からの同じ悩みをかかえながら、3校目へ……。(つづく)