震災の日に授かった命

 阪神大震災から今日で10年。インターネットでこんな記事を見つけました。

 神戸市西区の小学4年菅原翔平君は17日、10歳の誕生日を迎えた。郵便局職員の父敏郎さん(44)は、届いたばかりの朝刊と一緒に、一人息子の姿をカメラに収めた。翔平君には軽度の知的障害がある。毎年こうして、街の復興とともに歩む息子の成長を記録する。「おめでとう」。敏郎さんは午前4時半、起きてきた翔平君に声をかけた。食卓の上に朝刊を置き、翔平君がそれを見つめた瞬間、シャッターを切った。「震災10年」の見出しがある。

 10年前。同市須磨区の官舎で大きな揺れに襲われた。自宅に被害はなかったが、すぐ裏の住宅から火があがった。 夕方になって、「わーっ」と妻良子さん(41)が悲鳴を上げた。予定日より2週間早く、赤ちゃんが誕生した。だが、ぐったりしている。産声をあげない。鼻を吸い、背中をたたいた。119番にかけたがつながらない。近所の人が心配して大勢駆けつけた。救急車を探しに走り、お湯や産着、おむつを持ち寄った。ライターの火で消毒したはさみで、へその緒を切ってくれた。しばらくして、やっとオギャーと泣いた。ほっとした敏郎さんは、かねてから2人で決めていた名前で呼んだ。「翔平、おまえは翔平やぞ。」

 1歳を過ぎてから、翔平君の成長が気になりだした。服の脱ぎ着が自分でできない。歩くのもぎこちない。 次第に、生まれた時のことを考えるようになった。「呼吸のさせ方が悪かったのか」「胎盤がついたまま、湯につけたのがいけなかったのか」 知的障害児の通園施設に2年間通わせた後、次の1年は一般の幼稚園にした。2001年4月、小学校は障害児学級に入学させると夫婦で決めた時、気持ちの整理がついた。
 「他の子と比べず、ありのままのこの子を受け止めよう。」

 5、6年生がいない知的障害児学級で、翔平君は今、リーダー的存在だ。調理の実習で、スーパーでの買い物を仕切った。「次は小麦粉を買います」。下級生がついて回った。街の復興と息子の成長を重ねて確かめるために、敏郎さんは97年からこの「記念撮影」をしている。新聞と一緒なのは、いつか、神戸で大きな地震があったことを理解してほしいと願うからだ。「たくさんの命が消えたあの日、多くの人の助けで、君は生を授かった。この先どんな困難があっても、立ち向かっていかなければならない」。こう伝えたい。地震への恨みは消えた。「お前、びっくりして、おなかから出てきたんやで」と笑って言えるようになった。

 翔平君はこの日、いつも通り8時に学校に着いた。「おはようございます。」と元気に教室に入った。

 この記事を読んで、力がわいてきませんか。翔平君とともにがんばりましょう!