人間になれない子どもたち 2

<1960年代以降子どもたちを取り巻く環境は、どのように変わったのか>
 遥かな昔から子どもたちの居場所は、近所の野山、川、原っぱ、神社やお寺の境内であった。そうした場所で仲間と共に自由になる時間のほとんどを過ごしていた。自然のなかで様々な生き物と出会い感性を育くんできた。さらに、原っぱや境内で展開される集団遊びのなかで、生き抜くための心臓や肺機能を高め、筋肉の力を獲得していった。
 しかし、大切な「子どもの居場所」が、減っていったのである。河川の護岸工事が進み川は、遊泳禁止となった。原っぱ空き地には、マンションや工場が建ち、1990年代には、子どもの遊び空間は1955年と比較して40分の1にまで減少したのである。
 さらに生活様式の変化が、もたらしたものは、というと。1941年国民学校5.6年生の平日の生活時間を見てみると。1時間46分外遊び 1時間21分家の手伝い30分ラジオ、読書であった。それが、現在は、外遊び 0 手伝い 0 テレビ、パソコン、TVゲーム4時間である。外遊び、家の手伝いが、なくなり、エアコンの効いた部屋でテレビ、TVゲームに時間を費やすようになったのである。その結果、体力が低下していくのは、よくわかる。また、視力も弱くなっていった。
 また、自律神経の発達には、外で暑い寒い体験をすることが重要である。「いい汗」をかくことによって体温調節機能も発達していく。生まれたときからエアコン生活では、自律神経に異変を来す子どもたちが、増えてくるのも分かる。高齢者や病気の人々にとって快適な環境が、これから”人間になる”子どもたちにとっては、残酷な環境となっているのである。
 次に、心の発達の問題である。近年、大脳生理学などの研究によって、人間と他の動物とを分ける”人間らしさ”とは、脳の前頭葉前頭前野)の働きであることがはっきりしている。では、前頭葉を発達させ、人間らしい「心」を育てるにはどうすればよいのか。北海道大学澤口教授は、「結論から言えば、”遊ばせろ”ということ。多様な社会的関係に身を置き、多様な社会的体験をするための機会を子どもに与えることです。それも、脳が最もドラスティックに変化する感受性期(8歳くらいまで)に、そうした機会を与えることが重要です」更に、東北大学川島教授によると。「テレビゲームをしているときには、前頭葉にほとんど血流が行っていない。テレビゲームは、前頭葉を鍛え、発達させることにならないのである。」前頭葉の発達で一番大切な遅くとも10歳までの間に外で遊ぶこともなく、テレビ漬けになると前頭葉の発達が遅れる。すると、前頭葉が司る心の働きが、未成熟になっていくのである。論理的に考える能力・欲望を抑える心・思いやり・未来を考え準備する力などが、十分発達することなく中学生そして、大人になっていく。
 人間が、自分の行動を制御するとき人格の発達・成熟による「内なるブレーキ」が、働く場合と外的強制による「外からのブレーキ」が働く場合が、考えられる。親や教師の外からのブレーキが効いている幼い頃は、”良い子”でいるが、中学生にもなりからだが成長するにつれて親や教師の身体の大きさは、脅威ではなくなっていく。同時に、自分に食事や小遣いを与えるのは、自分を生んだ親として当然の義務だということに気づく。もはや、「欲しいものを買ってあげるから」というコントロールは、効かなくなる。つまり、「外からのブレーキ」が次第に効かなくなるのである。ところが、「内なるブレーキ」は、育っていない。そこへ外から刺激が加わるとブレーキが育っていないからアクセルで応えてしまう。つまり”キレル”。昨今の子どもたちの思春期前後の問題行動は、こうした背景のなかで捉える必要がある。
 更に子どもたちを取り巻く地域社会の環境も変わった。「子どもが育つには村中の人が必要だ」というアフリカのことわざがある。子どもたちは、幼少期から地域社会の多くの人々と触れ合う中でその心とからだを育まれてきたのである。しかし、60年代以降の日本では地域社会の変質の中で地域共同体は、次第に崩壊していった。その結果、お隣づきあいも希薄化し人々は、自分の子にしか興味を持たなくなった。育児や教育の機能は、親(とくに母親)に集中していった。子育ての責任を一身に背負わされた若い母親は、乳児の時からテレビ・教育ビデオをベビーシッター代わりにするようになり、乳幼児のテレビ・ビデオ接触の早期化と長時間化が、急速に進行している。地域における子どもの役割・ポジションが消えた。
 かつて地域社会には、年齢に応じて子どもたちの役割があった。火の用心の夜回りもその一つである。その役割を果たすということは、”子どもの社会参画”そのものであり、子どもたちは、”パブリック・マインド(公共のために自分の時間やエネルギーを使うことを当然のこととする感覚)”をそうした社会参画を体験しながら培っていったのである。今の日本では、この体験の場が、なくなってしまった。自分の時間を自分のためにしか使っていない子どもに公共心は、育たない。(つづく)