5 エスカルゴのディナー

ルーブル美術館


 タクシー乗り場に着くと、5分もしないうちに一人のタクシー運転手に声をかけられました。彼は、アフリカ系フランス人でした。わたしは、タクシーに乗り込むと
「モンマルトル。」
と言って、レストランの名前と住所と電話番号が書いてあるメモを彼にわたしました。「レストラン シェ バブ。」
と、わたしが言うと、彼は料金メーターを倒して、タクシーを運転し始めました。わたしは、料金メーターを倒したので少し、安心しました。ボッたくりタクシーの場合は、メーターを倒さないことがあるからです。でも、まだ用心しなくてはなりません。メーターの料金の進み方の速さや行き先が正しいかどうかなどを気をつけて見ていなくてはなりません。もし、ボッたくりタクシーだったら、旅行者をねらって、メーターの料金が速く進むように細工したり、わざと遠回りをして目的地にむかったりして、通常の料金の何倍もの料金を請求するからです。わたしは、しばらくだまって、タクシー運転手の様子や町の景色などを観察していました。

 わたしは、モンマルトルはルーブル美術館からどれくらい離れているかは、知りませんでしたが、北へ向かえばいいことはわかっていました。タクシーはけっこうスピードを上げて、北の方へ向かっているようでした。でも、わたしは、本当に運転手が目的地を知っているのか、確かめたくて英語で
「ドゥ ユー ノー モンマルトル エイティーン(モンマルトルの18番地を知っていますか)?」
とたずねました。すると、運転手は
「イエス。」
と答えました。わたしは、フランス語で18は何というのか思い出しながら、
「ディズュィット(18)。」
と言いなおすと、
「ウィ(はい)。」
とフランス語で運転手が答えました。

 しばらく走っていると、タクシーはモンマルトルの18番地に近づいたようでした。わたしが、またしつこく
「ドゥ ユー ノー レストラン シェ・バブ(レストランシェ・バブを知っていますか)?」
とたずねると、タクシー運転手は、右前方を指さして、
「イエス、シェ・バブ。クローズドゥ。(はい、シェ・バブに着きました。でも、閉まっています。)」
と答えました。レストランを見ると、確かに「シェ・バブ」と書いてあり、店の中が暗くなっています。でも、
「ノー オープン(いいえ、開いています。)」
ぼくが言い、タクシーを止めてもらいました。よく見るとレストランに明かりがついていたからです。料金を聞くと日本円で1000円もいかない金額でした。わたしは、
『ボッたくりタクシーでなかった。』
と思いました。そして、
「ナイスタクシー!(素晴らしいタクシーです)。サンキュー(ありがとう。)」
と、お礼を言って、タクシーを降りました。タクシー運転手さんの褐色の顔がニコッと笑って、わたしを見送ってくれました。運転手さんがとてもいい人でよかったと思いました。

 タクシーが思いの外早くつかまったこととモンマルトルが近かったこともあって、待ち合わせ時間の30分も前にレストランに着いてしまいました。中をのぞくと、同じツアーの人たちはだれもまだいません。そこで、レストランのある通りを今夜のディナーを楽しみにしながら、ウロウロすることにしました。今日の料理のメニューは、フランス料理を代表するエスカルゴ(かたつむり)です。このツアーに参加して、まだフランス料理らしい料理は食べていないわたしは、おいしそうなエスカルゴや舌平目のムニエルなどを想像して、食事の時間が来るのを楽しみに待っていました。エスカルゴは、今から約20年前ぐらいに東京の池袋のサンシャイン60ができたてのころ、その最上階のレストランで一度だけ食べたことがありました。初めて食べるエスカルゴは気味が悪かったのですが、食べてみると貝のようでとてもおいしかったことを覚えています。あれから、ずいぶんたったけれど、今夜、本場のフランスでまた食べられると思うと、とても心がワクワクしてきます。それにパリのフランス料理もとても楽しみです。

 しばらくすると、ルーブル美術館でバスを降りて自由行動をしてきた人たちの何人かがやって来たので、レストラン「シェ・バブ」の中に入りました。わたしたちは、奥のほうの席に案内されました。レストランの座席にすわり、落ち着いて周りを見回すと、想像していたのとは少しちがった様子でした。どう見ても、フランス風ではなく、周りの絵などからするとアラブ風という感じのレストランです。わたしは、不思議に思いましたが、ウェイターの人たちがフランス風だったということとエスカルゴはフランス料理でしかないことから、やっぱりフランス料理が出てくると信じていました。そうこうしていると、単独行動をした同じツアーの人たちが少しずつ集まってきました。バスでホテルに帰った人たちを待つ間に、みんな、このレストランに着くまでのできごとなどを話していました。若い女性の二人組の人たちは、わたしと同じようにタクシーに乗り、わたしと同じようにこのレストランの住所を書いたメモを運転手に渡したのに、「モンマルトル」ではなく、「モンパルナス」に連れて行かれてしまったという話をしていました。そして、このレストランまで来るのに 270フラン(約5000円)を請求されたそうです。わたしは、この二人の女性が気の毒に思いました。そして、中には悪いタクシーがいるので、やはり用心して乗らなくてはならないと思いました。そんな話を聞いていると、あのタクシー運転手さんが、今まで以上にいい人に思えました。

 市内の渋滞のため、時間よりおくれてホテルに帰った人たちのバスが着いて全員がそろいました。いよいよディナーの始まりです。最初に飲み物を頼んで、しばらくするとエスカルゴが出てきました。思ったよりも小さいかたつむりでした。バター風味で仕立ててあり、パセリのようなものがまぶしてありました。
『これがフランスのエスカルゴか。』
と思いながら食べてみると、何だかどろくさいような味がしました。20年前で味は忘れていたけれど、印象からすると東京で食べたエスカルゴのほうが、おいしい感じがしました。以前は期待しないで食べたけれど、今日は期待しながら食べたので、あまりおいしく感じなかったのかもしれません。フランスパンも出て来たので、やっぱりこれはフランス料理なのだと確信して、フランスパンを食べながら次の料理を待ちました。次は、いよいよメインディッシュの白身の魚です。わたしは、舌平目のムニエルを想像しながら楽しみにしていました。そして、いよいよ料理が来ました。見ると、マスのような魚が丸ごとお皿にのっていて、どう見ても舌平目のムニエルには見えません。どちらかというと、つり堀で丸ごと食べるマスに西洋風のソースをかけたような料理です。わたしは、がっかりしながら、その魚を全部食べました。まずくはなかったけれど、どうしてもフランス料理としては納得がいきませんでした。最後に、デザートのプリンを食べ、エスカルゴのディナーはすべて終了しました。

 わたしたち、ツアーのメンバーは、全員バスに乗り、ホテルに向かいました。するとツアーディレクターの伏見さんが、あいさつを始めました。
「みなさん、エスカルゴはいかがだったでしょうか。実は、今夜のレストランは、アフリカ料理の店だったのです。」
わたしは、
『やっぱり。』
と思いました。かたつむりはフランスでだけでなく、アフリカでも食べられていたのです。エスカルゴと聞いただけで、フランス料理を想像していた自分が、とてもばかだったと思いました。そして、世界にはまだまだ知らないことがいっぱいあることがわかり、外国へ行くおもしろさがますます心の中に広がっていきました。

 バスは、ホテルに到着しました。わたしは、ホテルの部屋で今日一日のことを振り返っていました。ルーブル美術館郵便局員さん、アフリカ系フランス人のタクシーの運転手さん。わたしは、親切なこの二人のおかげで今日一日を無事に過ごすことができました。そして、レストラン「シェ・バブ」でのエスカルゴのディナー。ここでは、めったに食べられないアフリカ料理を味わうことができました。

 シャワーを浴び、今日のつかれをとるためにベッドに入りました。また、今日のことを考えながら、わたしは、
『やっぱり、フランスにいるのだから、本場のフランス料理のエスカルゴが食べたかった。』
と心の中で叫びました。

(『オルセー美術館までの道 』つづく)