3 モン・サン・ミッシェルの固い握手

モン・サン・ミッシェルのテラス

 12月26日。今日は、いよいよモン・サン・ミッシェルに出かける日です。わたしは、バスに乗って、朝7時にトゥールを出発しました。目指すモン・サン・ミッシェルまでは、約 200㎞。バスは暗やみの中を突き進みます。この時期のフランスは、朝の9時近くまで薄暗くて太陽が出ません。おまけに、今年の冬は異常気象にみまわれていて、毎日雨が降り続いています。そのため、フランスの各地から洪水の被害のニュースが、毎日のように聞かれるそうです。わたしは、せっかくはるばる日本からモン・サン・ミッシェルを見るためだけに来たのだから、今日だけは晴れてほしいと願っていました。

 9時を過ぎたころになると、雨雲にかくれているけれども太陽が昇って来たらしく、あたりが明るくなってきました。周りの景色を見ると、どこまでも果てしなく続く畑や牧場ばかりです。そして、時々出てくる森。フランスは、国境以外はほとんど山がなく、平らな土地が多い国だと実感できます。日本の1.5倍の国土に日本の半分ほどの人しか住んでいない国。国土の多くが農業に使われていて、フランスは食料生産がさかんな国であることが、景色を見ているだけでよくわかりました。フランスの広々とした農地を見ながら国土がせまい上に山が多く、田畑があまり作れないのに農業をやめていってしまう日本のことがとても心配になってしまいました。フランスのように政府が農業を大切に守っていかないと、日本は将来食糧に困る日がやってくるのではないかと強く思いました。

 トゥールを出発してから4時間以上経って、牧草地の中から遠くの方にぽっかりと浮かんだモン・サン・ミッシェルが見えてきました。こんなにも何もないところに突然現れるモン・サン・ミッシェルの姿がとても神秘的に見えました。

 いよいよ到着。本物のモン・サン・ミッシェルを前にして、わたしは胸を踊らせながら走って近づきました。これで、「ぼくらのヒストリー」シンボルであるモン・サン・ミッシェルを子どもたちに紹介できると思い、とてもうれしくなりました。

 モン・サン・ミッシェルは、グレーの砂地に浮かぶ島。中世、ここに修道院が築かれて以来、巡礼の地として栄えてきました。島はもともと陸続きで、ノルマンディーとブルターニュにまたがるシシイの森の中にそびえる山でした。ところが、ある時津波がこの森をのみこみ、山は陸と切り離され、島となってしまったといいます。現在は、陸地と一本の堤防で結ばれているだけです。この付近一帯は、潮の干満の差がはげしいことでも知られています。満潮時には驚くべき速さで潮が満ち、以前は島全体が水に囲まれたそうです。このため僧院を訪れようとした数多くの巡礼者が波にのまれて、命を落としてしまったそうです。わたしが到着したときは、ちょうど干潮で、まわりは干潟のようになっていました。心配していた天気は、やはり雨。大西洋から吹きつける風も強く、とても寒かったです。

 わたしは、修道院の中に入ろうとピラミッドのような島の中の階段を登り始めました。パリから 300㎞も離れていて、近くには他の観光地がないにもかかわらず、世界中からたくさんの観光客がここにやって来ていました。せまい参道を登りつめていくとイギリス海峡から続く湾を見渡せるテラスに到着しました。反対の眼下にはノルマンディー地方ブルターニュ地方を分ける川が見えます。そして、修道院の塔のてっぺんを見上げると聖オベール司教に夢の中でこの修道院を建てるようにとお告げをあたえた天使ミカエルの像が輝いています。わたしは、今、学級通信「ぼくらのヒストリー」のトレードマークの中にいるのだと思い、とても感激していました。

 フランス人のガイドさんの説明をツアーディレクターのFushimiさんに通訳してもらいながら修道院の中を見学し終わると、わたしは、すぐに入口に近いグランド・リュ(大通り)にあるみあげ物屋に向かいました。

 いくつか店を見た後、ある店先で10種類のモン・サン・ミッシェルの絵はがきを取りました。そこには、今の時期には見られないモン・サン・ミッシェルの様々な姿が写し出されていました。わたしは、それらの絵はがきを買おうとして、店の中に入りました。すると、そこには日本人のような中年の女性の店員さんが、他のお客さんとフランス語で何かを話していました。わたしがしばらく彼女を見ていると、話し終えた東洋系女店員さんがこちらをほほえみながら見てくれました。

 わたしは、もしかすると彼女が日本人かもしれないと思い、日本語で
「すみません。」
と話しかけてみました。すると、彼女は英語で、
「アイム フロム ヴィエトナム(わたしはベトナム出身です)。」
と答えました。だから、わたしも
「アイム ジャパニーズ(ぼくは日本人です)。」
と英語で答えました。彼女は、日本人でなくベトナム系フランス人だったのです。ベトナムと言えば、クラスのTちゃんのふるさと。わたしにとって日本と同じくらい身近に感じられる同じアジアの国です。わたしは、何となくうれしくなって、絵はがきの値段を聞くと、彼女の前で日本語でフランのお金を数え始めました。
「1、2、3。」
すると、彼女はぼくのまねをして日本語で数え始めました。 わたしは、お金をはらい、絵はがきを受け取ると、以前ベトナムの子を担任したときに教わったベトナム語でお礼を言おうと思いました。
「カムウン(ありがとう)。」
すると彼女は驚いたように目を丸くしてわたしの顔を見て、突然右手を出して、わたしの右手を固く握って握手をしました。突然のことでびっくりしたけれど、わたしもガチッと彼女の手を握り返しました。わたしは、ベトナム語のたった一言でこんなに喜んでもらえて、本当にうれしくなり、胸が熱くなりました。
「こんな片言でも国際交流ができるのだから、やっぱり外国語は覚えておくものだなあ。」
とつくづく思いました。わたしは、その握手で最高な幸せな気分になりながら、彼女にベトナム語で別れを告げ、そのみやげ物屋を後にしました。
「タンビエ(さようなら)。」

 わたしは、握手の余韻の感動しながら、集合時間も近づいているので、少し離れた所へ行って、モン・サン・ミッシェル全体が入るように写真をとりました。昼食は、モン・サン・ミッシェルが眺められるレストランで、名物のオムレツを食べました。そして、バスに乗り、もう二度と来られないであろうモン・サン・ミッシェルを見えなくなるまで見つめながら、学級通信「ぼくらのヒストリー」のトレードマークに別れを告げました。

「さようなら、モン・サン・ミッシェルベトナム系女店員さん。あの温かい固い握手はずっと忘れません。」

 バスは、映画「シェルブールの雨傘」の舞台であるシェルブールスティーブン・スピルバーグ監督の映画「プライベート・ライアン」に登場するオマハ・ビーチの近くを通って、約5時間かけてパリにもどりました。

(『ルーブル郵便局』につづく)