10 2000年の東ヨーロッパから日本へ

ヴァーツラフ広場

 いよいよプラハを出発する日が来ました。この日は、また、ウィーンまで5時間バスに揺られるため、朝の5時20分にホテルのロビーに集合し、そこで簡単な朝食をとりました。5時30分に2日間過ごしたホテルデュオを出発しました。

 暗闇の中、ヴルタヴァ川を渡り、ヴァーツラフ広場を通り、バスはどんどんプラハの街から離れていきます。ぼくは、後ろ髪をひかれる思いをでしたが、この旅のいろいろなことを思い出していました。

 ブダペストのラーメン屋のウェートレスさんと中国語会話の練習をしたこと。まさか、ブダペストでラーメン屋に入るとは思いませんでした。お互いに中国語で別れのあいさつを言ったときの笑顔は忘れません。

 ブダペストのテレビで、ハンガリー語の『風雲たけし城』を見たこと。なつかしかったけれど、とても不思議な気分になりました。

 ウィーンで入ったマクドナルド。ロイヤルバーガーは大きかったです。ウィーンでは、バリューセットとは言わず『メニュー』ということがやっとわかり、やっと注文できました。

「ビテッ!ビテッ!(どうぞ。)」と怖い顔で、怒ったようにドイツ語で注文をきいていたウィーンのサンドウィッチ屋のおばさん。英語で注文したフライドフィッシュがなかなか通じず、結局指で指して買うことができました。

 中年H氏の持っていたハンガリーのたばこを見て、なつかしそうに話しかけてきたカフェのウェーターのおじさん。自分の国のことを誇らしげに話してくれました。ウィーンでは、ウィンナーコーヒーのことを、『メランジェ』と呼ぶと教えてくれました。

 ウィーンで最後に見た『ペルーのナスカ展』。まさか、ウィーンで地上絵を見るとは思いもよりませんでしたが、ぼくにとっては最も興味深い場所でした。

 人がよさそうで、やさしくチェコ語会話を教えてくれたプラハ城近くのレストランのウェーターのお兄さん。Dekuju vam.(ジェクユ ヴァーム・ありがとう)

 なんだか食べてばかりいたような旅でしたが、食べ物屋さんが、一番人とのふれあいが多かったように思います。

 こうして、いろいろなことを考えながら、バスに乗っていたので、あっという間にウィーンの空港に着いてしまったような気がしました。そして、13時45分発(日本時間21時45分)発オーストリア航空555便は、ぼくたちを乗せ、成田空港に向けて飛び立ちました。

 機内では、いっしょのツアーの中年の夫婦と隣りの席になりました。ぼくが、
「オプショナル・ツアーには参加したんですか。」
とたずねると、奥さんのほうが、
「全部行きました。」
と答え、また
「どこが一番よかったですか。」
と聞くと、
ザルツブルグはよかったよ。ドナウベンドもよかったよ。」
と答えてくれました。
「オプショナル・ツアーは行かなかったの。」
と、ぼくは奥さんにきかれたので、
「ええ、一つも行きませんでした。」
と、答えました。すると、奥さんが、
「オプショナル・ツアーに行かないとつまらないんじゃないの。」
言ったので、ぼくは、
「おもしろかったですよう。」
と、気持ちを込めて答えた後、話をやめました。

 ぼくは、人によって旅に対する考え方はちがうのだなあと思いました。確かに、オプショナル・ツアーに参加して有名な観光地に連れて行ってもらうのもいいけれど、ぼくは自分の足で、地図を片手に、道を間違えながら行く方がずっと楽しいと思います。目的地にたどり着く間にいろいろな失敗をしたり、いろいろな人と出会ったりすることが、どんなに思い出深い旅になるか。そのことが、今回の旅で体験できて本当によかったと思います。

 よく人生は旅に例えられるけれど、ぼくは人生も人に連れて行ってもらうのではなくて、自分の頭で考え、転んだり失敗したりしながらも、自分の足で歩いていきたいと思います。その方が、生活の中で得られるものが多いと思うからです。そして、これからもできる範囲でやりたいことをやって生きたいと思います。

 帰りの飛行機は、太陽と反対の方向に飛んでいるため、今度はずっと夜のように暗闇です。そして、最後の1月10日は、1日が16じかん(24時間−8時間)で、とても短くなっています。

 機内食を食べ、しばらくすると、映画「ノッティングヒルの恋人」が始まりました。ぼくは、見たいと思いました。中年H氏を見ると、映画を楽しそうに見ています。ぼくは、これを見てしまうと、行きの飛行機の二の舞になってしまうと思いました。明日は、2000年の仕事始め。またバリバリ働かなくてはなりません。だから、ぼくは映画は我慢して、静かに目を閉じました。

 何時間たったでしょうか。ウトウトしていると、2度目の機内食が出され、しばらくすると飛行機が着陸体勢に入るランプが点灯しました。成田空港上空は天候が悪く、外を見ると雲しか見えません。

 いよいよ緊張する着陸です。と思うと同時に、飛行機が普通の状態よりも急降下しているように思えます。すると、今度は目の前の非常口のランプが点灯しました。
『もしかしてこの飛行機は緊急着陸するのだろうか。』
と心配していると、飛行機の機体が落下しているようにグーンと下がっていきます。

 ぼくが
「ワーッ。」
と声を上げると、オプショナル・ツアーに全部参加したとなりの奥さんが、
「男の人なのに怖いの。」
と言いました。ぼくは、くやしかったけれど、
「こういうのは、女の人の方が強いんじゃないですか。」
と、答えました。ぼくは、たとえこの飛行機が墜落しても、もう声を出さないようにしようと心に決めました。

 そう思っていても、急降下はまだ終わりません。ぼくは、
『墜落するのが、帰りの飛行機でよかった。』
と思いました。もし、行きの飛行機だったら、旅行をしないうちに死んでしまって、まるで死ぬために来たことになってしまうからです。
『旅行の思い出を胸に死のう。』
と、思った瞬間、
『いや、今死ぬわけにはいけない。今死んだら、家族も困ってしまい、せっかく取材したこともみんなに伝えられなくなってしまう。』
と思い、もし飛行機が墜落したとしても、一人で生き残ろうと決心しました。

 生きようと決めてから何分たったでしょうか。飛行機の機体は水平になり、タイヤが回る大きな音とともに、午後9時15分に、無事着陸しました。ぼくは、体が硬くなっていましたが、ホッとして、しばらくぼんやりしていました。

 成田空港は、雪。ぼくは重たい手荷物とたくさんの思い出を持って、日本の大地に降り立ちました。その瞬間、ぼくの体に力がわいてきました。
『さあ、明日からがんばるぞう。』

(「おわりに 〜夢に向かって 〜」につづく)