9 『プラハの春』とスメタナ

スメタナ博物館


 チェコという国は、他の国に支配されていた時代が長かった国です。1749年から約70年間はオーストリアに、1938年から7年間はドイツに支配されていました。その間、チェコ語という自分たちの言葉がありながら、ドイツ語を強制されていたそうです。日本でなじみ深い「モルダウ」という名前はドイツ語で、現在使われている「ヴルタヴァ」はチェコ語だそうです。

 また、1945年から1989年の44年間は、社会主義の国として旧ソ連をリーダとする東側陣営に組み込まれていて、国民の自由はなかったのです。

問題7
 チェコは、社会主義の時代にはなんという国だったでしょう。

答えは、チェコスロバキアです。隣りのスロバキアという国と一つの国を作っていました。

 2000年1月8日午前9時。ぼくは、チェコ国立博物館前のヴァーツラフ広場に立っていました。ここは、世界史の教科書に出てくるような歴史的な大事件が起こった広場として世界に知られ、プラハに行ったら絶対に行こうと思っていた場所です。

 今から32年前、1968年のチェコスロバキアは、より自由な社会を作ろうという気運が高まり、ドゥブチェクという人が第一書記長になると、今まで言いたいことも自由に言えるようにする国民の権利など、いろいろな自由を求めて政治が動き出しました。この新しいチェコの社会の動きを『プラハの春』と言います。

 しかし、この動きを見ていたソ連を中心とする東側陣営の国々が、自分たちの政治体制が崩れていく心配があると判断して、この新しい自由への動きを止めようと考えました。そして、武力で抑えようとソ連軍の戦車を乗り入れた場所が、ぼくが今立っているヴァーツラフ広場なのです。1969年1月、ソ連軍によって占領されたこの広場で、ヤン・パラフという学生が焼身自殺を図って、ソ連の介入に抗議した場所です。これは、チェコ事件と呼ばれています。そして、この時、『プラハの春』は実を結ばなかったけれど、ヤン・パラフに捧げられた記念碑には、今日も人々からの花が置かれています。

 昨日のガイドさんの話によると、その後、チェコはまた自由のない社会にもどり、国民の住む場所や職業は、政府に決められたそうです。そして、政府の批判などすると警察につかまってしまったそうです。

 しかし、国民の自由を求める動きは止まらず、夜、警官に見つからないように集まって、新しい国を作る相談をしていたそうです。そして、チェコ事件から20年、1989年11月。学生のデモが起こったのをきっかけに、再び自由を求める運動が高まり、100万人に上る国民が、このヴァーツラフ広場に集まり、それまでの政府が倒れました。

 こうして、誰も血を流すことなく、『ビロード革命』を果たし、チェコの人々が新しい国作りを出発させた場所に立っていると思うと、ぼくは本当に感慨深い気持ちになりました。と同時に、ヤン・パラフの写真を見ながら、彼がもし今生きていれば、きっと喜んで、自由な生活を楽しんでいたかと思うととてもやり切れない気持ちにもなりました。

 ヴァーツラフ広場を歩いていると、社会主義時代の暗い影は一つもなく、自由な雰囲気に包まれていました。マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなどといった日本でもなじみの深い店もたくさんできています。また、街角のショッピングセンターには、商品が溢れ、プラハの人は、楽しそうに買い物をしています。まさに本当の『プラハの春』がやって来たという感じです。

 ぼくは、チェコの二大作曲家のスメタナとドヴォジャーク(ドボルザーク)のCDを求めて、CDショップに入りました。中に入ると、そこは日本で見たような空間でした。店内には、アメリカやイギリスを初めとする世界でヒットしているCDがたくさん置いてありました。ロック、ポップスなど聞き覚えのある曲が、たくさん流れています。ぼくは、
『世界は音楽で結ばれているのだなあ。』
と、改めて実感し、国境を越える音楽のすばらしさに感動しました。

スメタナ:連作交響詩「わが祖国」

 クラシックコーナーに行くと、またもや日本と同じで世界の大作曲家の作品が並べらています。その中から、ドヴォジャーク作曲交響曲第九番新世界より』とスメタナ作曲交響詩『わが祖国』の『ヴルタヴァ』がいっしょに入っているCDを探し出しました。演奏は、日本でも有名なノイマン指揮、チェコ・フィルハーモニックオーケストラです。ぼくは、
『きっと日本でも買えると思うけれども、やはりこの歴史的な意味のあるヴァーツラフ広場の店で買ったCDはちがう。』
と思って、2枚買いました。そして、いいおみやげできたことに満足して店を出ました。

 それから、ヴァーツラフ広場と並んでにぎやかな通り、ナ・プシーコピェ通りを歩き、『プラハの春』音楽祭が開かれる市民会館を通り、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を初演したことで有名なエステート劇場の横を通り、昨日の天文時計のある旧市街広場に来ました。この時、もうぼくはプラハにすっかりなじみ、チェコ人のような気持ちになり、ゆったりとした気分で、広場の雰囲気を楽しんでいました。

 プラハの最後に、もう一つ行きたかった場所であるスメタナ博物館に行きました。スメタナは、チェコを代表する作曲家です。チェコオーストリアに支配されていたとき、音楽を通してチェコの独立と民族復興運動に情熱を捧げました。そして、耳が聞こえなくなってから、『わが祖国』を作曲しました。その後、精神錯乱状態になり、自分でこの曲を聞くことなく、1884年5月12日に亡くなりました。スメタナの命日には、毎年『プラハの春』音楽祭が開かれ、そのオープニングには、彼の『わが祖国』が演奏されるのです。

 ヴルタヴァ川のほとりに建つこのスメタナ博物館には、彼に関する資料がたくさん集められています。チェコ語のため、ぼくには意味がよくわかりませんでしたが、窓から見えるヴルタヴァ川とカレル橋とプラハ城を眺めながら、ぼくはプラハとの別れを惜しんでいました。

 出口のCD売り場のところで、ぼくがCDを見ていると、チケット売り場のおじさんに、
「ムズィカンテ(音楽家)?」
と尋ねられました。ぼくは、
「ノー。」
と否定して、笑顔でおじさんと別れました。
『ぼくがもしムズィカンテだったら、このヴルタヴァ川のほとりでバイオリンでも弾いて、この美しいプラハに別れを告げられるのになあ。』
と思いました。

 ホテルからの帰りは、インターコンチネンタルホテルからベンツのタクシーに乗りました。GOTOHさんから絶対にホテル以外のところに止まっているタクシーに乗ってはいけないと言われていたからです。プラハのタクシーは、悪いタクシーが多く、道端などで乗ると何万円も取られることがほとんどだそうです。ぼくは、ベンツのタクシーに乗りながら、再びヴルタヴァ川を眺め、
『もう一度プラハに来るときは、もっと安全な街になっているといいな。』
と思いながら、ホテルに帰りました。

(「2000年の東ヨーロッパから日本へ」へつづく)