7 『三王来朝の日』

ヴォティーフ教会

 出だしは悲惨なものでしたが、ウィーンは本当にすごいところです。建築、美術、音楽など歴史的に価値のあるものがたくさんあり、見どころがいっぱいです。

 6世紀以上にわたってハプスブルグ王家が住んでいた王宮。「ウィーンの心臓」として市民から愛されているシュテファン寺院。パリのルーブル、スペインのプラドと並ぶ、ヨーロッパの三大美術館の一つの美術史美術館。トルコ軍を撃退した英雄オイゲン公の夏の離宮として約200年前に建てられたベルヴェデーレ宮殿。18世紀初頭、マリアテレジアの時代に完成したオーストリア最大の宮殿、シェーンブルン宮殿。ヨーロッパ近代建築運動で知られるオットー・ワーグナーが設計したカールスプラッツ駅舎や郵便貯金局。1784年から4年間モーツァルトが住み、オペラ『フィガロの結婚』を書いた場所として知られているフィガロハウス。「分離派」として知られるクリムト作のフレスコ画「ベートーベン・フリーズ」展示されているセッセッション。

 どこに行っても夢のような美しさで、心がしっとりと溶けていくような感覚が味わえました。

 ウィーン2日目の1月6日は『三王来朝の日』というキリスト教の祭日でした。朝からウィーンの街は、近くのもの以外は見えないほどの濃い霧に包まれていました。

 ぼくは、一人で楽友協会ホールの前に立っていました。ここは、世界に冠たるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地で、毎年1月1日にここの黄金の間でニューイヤーコンサートが行われる場所です。つい5日前にテレビで見たニューイヤーコンサートが行われていた場所に、今自分が立っていると思うと、信じられないような気持ちが込み上げて来て、感動していました。

 この日は、オーストリアのほとんどの商店やレストランや銀行などは休みになっていました。また、市民はそれぞれの教会のミサに参加していて、ほとんど人通りはありません。街は、霧と静けさに包まれ、とても幻想的です。聞こえるのは、教会から聞こえる賛美歌の歌声ぐらいでした。

 ぼくは、ウィーンで最も美しいバロック様式の教会、カールス教会を探していました。地図で見ると、近くまで来ているのですが、霧のため先が見えないので、どこにあるのかわかりません。

 すると、そこへ60歳代くらいの女性が、カールスプラッツ駅の方から突然現れました。ぼくは、英語が通じるかわからないけれど、カールス教会はどこにあるか尋ねてみました。すると、彼女は、ぼくの言葉を理解してくれたらしく、
「わたしもそちらの方向に行くので、ついて来てください。」
というような意味のことをドイツ語で言ってくれました。ぼくは、何を話していいかわからないので、無言で彼女について行きました。もし日本で何も見えない霧の中、誰も人のような場所で外国人の男に話しかけられたとしたら、日本人だったら不安に思い、逃げて行ってしまうかもしれません。でも、彼女は、何も恐れずに道案内をしてくれました。この時、ツアーコンダクターのGOTOHさんが、
「ウィーンの人は、とても親切ですよ。」
と言っていたことを思い出しました。

 ほんの数分間、彼女の後からついて行くと、霧の中から忽然とカールス教会が現れました。めったに見られない霧の中の美しいドーム型の教会に見とれながら、ドイツ語の「ありがとう」がわからなかったぼくは、彼女に英語でお礼を言って別れました。ぼくは、彼女のゆっくりとゆっくりと歩く姿を見送りながら、心の中で何度も何度もお礼を言いました。そして、彼女はまた霧の中へ消えて行きました。ウィーンの人と言葉を交わすことができたのは、この時ただ一度だけでした。

霧のカールス教会をカメラにおさめ、ぼくは市立公園に向かいました。ここには、シューベルトの像やヨハン・シュトラウス2世の像があり、夏にはコンサートも開かれる市民の憩いの場所です。

 ぼくは、霧の中迷いながら、やっとウィーンの観光案内のポスターで知られているヨハン・シュトラウス2世の前にたどり着きました。市立公園に入ってからはだれとも会わなかったけれども、ここには観光客らしいカップルがいました。ぼくが、像の写真を撮ろうと待っていると、カップルのうちの男性が、
「写真を撮って下さい。」
と、ぼくに英語で言いました。ぼくは、快く引き受け、黄金に輝くヨハン・シュトラウス2世の像と二人のカップルの写真を撮りました。彼らは、ちょうどいいところにカメラマンが来てくれたと、とても満足そうでした。ぼくもひとりだったので、今度は、彼に頼んで写真を撮ってもらいました。ぼくが、彼に
「どこから来たんですか。」
とたずねると、
「イタリー。」
と答えが返ってきました。
『じゃあ、イタリア語でお礼を言って別れよう。』
と、ぼくは思いました。
グラッツェ。チャオ。」
と、ぼくが言うと、彼らはとてもうれしそうに微笑みました。そして、
「プレーゴ。チャオ。」
と、イタリア語で返してくれました。ぼくは、
『たった一言の言葉で人と人とは心が通じ合えるものだなあ。』
と思い、世界の人々といっしょに生きるためには、外国語の勉強がとても大切なのだと実感しました。そして、どこに行ってもあいさつは人と人との心をつなぐ大切なものだと、改めて思いました。ぼくは、もう少しこの二人と話をしていたかったけれど、カプツィーナ教会の『三王来朝の日』のミサに参加する予定があったので、その場を立ち去り、再び霧の中の人になりました。

 カプツィーナ教会の扉を開けると、ミサはもう始まっていました。キリスト教徒でないぼくは、入ってもいいものやら迷っていましたが、決心をして中に入って行きました。この教会はとても地味な建物ですが、地下にオーストリア帝国の女王マリア・テレジアと夫のフランツ公が埋葬されている、歴史の上ではとても意義のある教会です。

 教会の中には、子どもから老人まで、たくさんの人が集まって、牧師さんの説教を聞いていました。ほとんどがウィーンの住人のようでしたが、ぼくのような東洋系の観光客が入って行っても誰一人不思議な顔もせず、ごく自然な感じで迎えてくれました。ぼくは、一番後ろの一つ開いている席に座りました。すると、隣りに座っている人が、こちらを向いてにっこり微笑んでくれました。ぼくは、ウィーンの人に歓迎されたようで、とても幸せな気持ちになりました。ぼくは、ドイツ語の説教や賛美歌を聞いても、まったく理解できませんでした。でも、たくさんのオーストリアの人々の中、ぼくはアジア人の一人として、最後にみんなとお祈りをしました。
「世界のたくさんの人々となかよくできますように。そして、旅の思い出がたくさんできますように。アーメン。」

 昨日の心の中に吹いていた冷たい風は、いつの間にかどこかに行っていました。そして、この時初めて、ウィーンの人々と心が一つになれた気がしました。

(「美しく危険な街・プラハ」につづく)