6 冷たい風が吹くウィーン

ウィーン大学前のマクドナルド

 東ヨーロッパに来て3日目。バスはブダペストからオーストリアの首都、ウィーンに向かっていました。再び、料金所のような出入国管理所を通って、オーストリア国内に入りました。バスの中では、第2の国歌とまで言われるほどオーストリアの国民に親しまれている『美しき青きドナウ』の曲が流れていました。

問題5
 『美しき青きドナウ』の作曲者は、誰でしょう。

 答えは、ヨハン・シュトラウス2世です。『ウィーン気質』の作曲者で、ワルツ王と呼ばれています。

 オーストリアの景色を眺めながら聴く『美しき青きドナウ』は、日本で聞くよりもさらに心にしみ込むようで、とても感動的です。でも、実際のドナウ川は、美しくも、青くもなく、群馬県を流れる利根川の水とあまり変わりないように思われました。

 ドナウ川を渡り、ウィーン市内に入ると、ヨーロッパに来てからずっとどんよりとしていた曇り空がパッと晴れ、太陽と青空が見えてきました。そして、垢抜けた感じのシャレた建物が並ぶウィーンの街が、まぶしいくらいに輝いています。昨夜のとても温かい人の心にふれた余韻が残っていたぼくは、この華やかなウィーンの街でのいい出会いを期待しながら、バスの窓から見える景色に見とれていました。

 しかし、ウィーンでの旅の始まりは、ぼくにとって、とってもはずかしいものでした。

 ウィーンに着いたのは、午前11時半くらいでした。ぼくは、昼食をとろうとウィーン伊勢丹デパートの隣りにあるマルクトというレストランに入りました。このレストランはセルフサービスで、たくさんのメニューの中から自分の好きなメニューを指で差すだけで注文できるのです。そして、何よりぼくにとって都合のいいのは、きちんとしたレストランのようにチップを渡さなくてもいいことでした。チップの習慣のない日本人にとっては、代金の5〜10%のチップを計算して払うというのが、とても煩わしい感じがします。

 店の中に入ると、12時前でもけっこうお客がいました。料理もたくさん並んでいて、何を食べようか考えながら選べるのも楽しそうです。ぼくは、テーブルの場所を決めて、荷物を置いて、さっそく料理を選ぶためにウキウキしながら歩き始めました。

 最初にトレイを取ろうと思った瞬間、ぼくは、野球の盗塁でもしたときのようにツルーンと滑り、倒れたと思ったら、床の上で寝転んでいました。床の上が濡れていていて、とても滑りやすくなっていたのです。周りの人たちがみんなこちらを見ています。オーストリア国民が一斉にぼくに注目しているような恥ずかしさを感じ、ぼくは何もなかったように立ち上がりました。すると、こんな時はほうっておいてほしいのに、近くの料理担当の店員が、ドイツ語でぼくに何かを話しかけてかけてくるのです。転んで頭が混乱している上に、勉強したことのないドイツ語で話しかけられても、どう反応していいかわかりません。ぼくは、とっさに
「えっへ、転んじゃった。」
と、照れ笑いをしながら、日本語で言葉を返し、その店員の前から立ち去りました。今までの楽しい気持ちはすっかり消え、みんなが自分のことを笑っているのではないかという被害妄想で頭がいぱいになり、何を選んだらいいのか、わからなくなってしまいました。そして、結局選んだものといえば、ウィーンで大流行している寿司とサラダとコーヒーという日本でも食べらるような訳のわからない取り合わせのものでした。

 レジのところに並べば、現地の人に次々と割り込まれ、お金もなかなか払えません。やっと料金を払う番がきたと思ったら、料金を言われてもどのお金を払ったいいか考えられず、結局払った料金もわからなくなってしまいました。寿司を食べてもよく味わえないまま、ぼくは、そそくさと食事を済ませ、マルクトを後にしました。

 こんなふうにウィーンでデビューしたぼくは、心が縮こまってしまい、旅を楽しむ冷静さを失ってしまいました。そして、オーストリア人やドイツ語に対するコンプレックスを持ってしまったような感じで、ハンガリーがとてもなつかしくなっていました。おまけに、悪いことはこのあとも続きました。 時差ボケも3日目になり、疲労も限界に近づいていたため、ホテルに着いたバスから降りるときに、身の回りのものに気を配ることを忘れ、バスの中にウエストポーチを置き忘れてしまったのです。その中には、一度も使っていない英会話の本やフィルムやパスポートのコピーなどが入っていました。気がついたときには、もうバスはブタペストに向かってしまい、ぼくの荷物はどうなったわかりません。

 そして、失敗はその後も続きました。ぼくの泊まったホテルは、ウィーンの郊外にありました。ウィーン市内に出るには、バーゼル線という電車で、国立オペラ座の前まで行かなくてはなりませんでした。ぼくは、その夜、中年H氏を誘って、ウィーンきっての繁華街『ケルントナー通り』を目指して、電車に乗りました。電車の中はそれほど混んでは、ぼくたちの他に日本人の親子が一組乗っていました。電車の中のアナウンスはすべてドイツ語で放送されています。ドイツ語がわからなくても、目指すオペラ座前は終点なので、ぼくたちは安心して乗っていました。

 しばらくするとウォルフガング駅?に着きました。ウィーンの人々は、どんどん降りて行きましたが、電車はいつになっても発車する気配はありません。乗っているのは、ぼくたち日本人4人だけで、電車は貸切状態です。終点は、オペラ座前のはずなので、電車が動かなくてもだれも不思議に思いません。

 ぼくたちは、それからさらに動き出すのを待ちました。ぼうっとして座っていると、突然車内の電車が全部消え、辺りは暗くなりました。オーストリア人の車掌が、怒ったような口調でぼくたちにどなっています。どうしたのだろうと思っていると、最後に「チェンジ」という英語が聞こえました。そこで、やっとぼくたちは、ここが乗り換えの駅だということがわかりました。4人の日本人は、あわてて電車を降り、隣りの電車に乗り換えました。その電車には、さっき次々に降りていった現地の乗客が乗っていました。ぼくは、どうして誰も教えてくれなかったのかと、少しがっかりした気分になりました。

 電車は、オペラ座前に向けて発車し、動き出しました。しばらくすると、また長い間停車していました。ぼくたちは、そのまま座っていましたが、今度は電気も消えないし、車掌も怒鳴りません。でも、次から次へと乗客が乗り込んできます。パッと外を見ると、そこには、ライトアップされた重々しい表情のオペラ座が、浮かび上がっていました。ここが終点だということにやっと気づき、ぼくたちは、電車から飛び降りました。日本人の親子は、まだゆったりとした気分で電車に乗っています。ぼくが、窓から合図すると彼女たちもあわてて降りました。ぼくは、もう少しで折り返しの電車で戻ってしまうところだったと思いながらも、やっと目的地に着いたので、ホッとした気分になりました。ケルンナー通りを歩いていると、昼から先ほどまでのことが思い出され、ぼくの心の中には、冷たい風が吹いていました。

 帰国後、2月にこの文章を書いていると、ニュースでオーストリアで極右政党の自由党が参加した連立政権が誕生したことを報じています。テレビでは、あのギリシャ建築の国会議事堂前でそれに反対する人々のデモの映像が流れ、ヨーロッパ各国ではオーストリアに対する非難の嵐が吹き荒れています。もしかしたら、ウィーンでぼくの心の中に吹いたあの冷たい風は、この嵐の前ぶれだったのかもしれせん。

(「『三王来朝の日』」につづく)