9 コスモポリタン

 わたしがパリに滞在している間の目標は、パリの街に溶け込み、パリの市民になることでした。

 パリでの最終日。わたしは、地下鉄やRERに乗ることにすっかりなれ、どこへでも自由に行けるようになっていました。

 パリは、いろいろな人種の住んでいる都市です。駅や電車にはいろいろな人がいます。アラブ系、アフリカ系、ベトナム系、イタリア系、トルコ系、ゲルマン系など。だから、地下鉄に乗っていても、となりの座席にアルジェリア出身の人がすわったり、ドイツから来た人がすわったりすることは、普通のことです。だから、肌の色、目の色、髪の毛の色が全員ちがっているのは当たり前。外国人だからと言って、人とちがっているからと言って、注目されることはありません。パリは自分自身が溶け込もうとさえすれば、誰からもこばまれることなく、コスモポリタン(世界人)として生活できる街です。わたしはその点については、パリをとても気に入っていました。

 12月29日は、いよいよ日本に帰る日でした。でも、飛行機の出発は夕方なので、午後3時までは自由時間になりました。それまで、コスモポリタンとして、パリでの生活を楽しもうとぼくは思いました。

 わたしは、パリに来て、一度も高いところ(エッフェル塔凱旋門)に登ることができませんでした。だから、今日はモンマルトルの丘に行って、パリの街を眺めたいと思いました。朝一番に行ったので、モンマルトルはとても静かでした。でも、美しいイメージとはちがって、道路には犬のふんや紙くずなどのごみが目立ち、アルコール依存症のような人の叫び声などが聞こえ、わたしにはよごれた街に見えました。でも、空は青く、モンマルトルのシンボルのサクレクール寺院に行くと、パリの街が見渡せ、とても気持ちよく感じました。

 続いて、地下鉄に乗り、サンラザール駅で降り、オペラ・ガルニエの前を通り、パリ三越デパートやプランタン(高島屋)などを見て回って、昨夜行ってみたホテル・リッツのあるヴァンドーム広場に行ってみました。再び現地へ行ったものの、結局、ダイアナ妃の事故死の謎は解けませんでした。

 最後の日の昼食は、パリの地図の広告にのっていた「サッポロラーメン」行ってみました。なぜ、パリにサッポロラーメンなのか、どんなラーメンが出てくるのか、解明してみたかったからです。パリのサッポロラーメンはオペラ大通りから、小さな通りを入ったところにありました。店の中に入ると日系の店員さんが、フランスなまりの日本語で
「いらっしゃい。」
と言いました。わたしが一人だと分かると、カウンターへ案内してくれました。わたしは、座ってすぐに塩ラーメンを注文しました。わたしが塩ラーメンを待っていると、日本人の女性が入って来て、テーブルにすわりました。少し様子を見ていると、わたしには水もお茶も持って来てくれないのに、その女性には日本茶を運んでいました。わたしは、ちょっとおかしいと思いました。日本のサッポロラーメンだったら、注文を聞くときに水を必ず持って来てくれます。でも、パリのサッポロラーメンでは、お客によってお茶を持って来たり、持って来なかったりするのです。わたしは、納得がいかないまま、塩ラーメン待ちつづけました。ふと、壁にはってあるメニューを見ていると「水」「ウーロン茶」「日本酒」「日本茶」という文字が、目に入りました。そして、やっとわかりました。パリのサッポロラーメンでは、水もお茶も他の飲み物と同じように有料で、注文しないと持って来てくれないことが。それならわたしも注文しようと思って、値段を見てみました。「水 15フラン(約 300円) 」「ウーロン茶 15フラン(約 300円) 」「日本酒 10フラン(約 200円) 」「日本茶 10フラン(約 200円) 」わたしは、値段を見て驚きました。水が 300円もするのです。水より日本酒の方が安いのもとても不思議でした。わたしは、どうせ同じ値段ならウーロン茶の方がいいと思って注文すると、ポッカウーロン茶の缶がすぐに目の前に出てきました。同じものが、日本の値段の3倍もするので、パリの物価は高いと思いました。塩ラーメンも日本で食べる方がおいしかったけれど、パリのサッポロラーメンに入っていろいろなことがわかり、よかったと思いました。

 続いて、パリのおみやげを買おうと思って、ルーブル美術館の近くのみやげ物店を見て回りました。なかなかいいものが見つからず、わたしはTシャツとトレーナーの店に入りました。パリの文字や絵が入ったものがたくさんならんでいました。わたしは、子供用のトレーナーを2着選んで、代金を払おうとすると、女性の店員が
「フォー・ユー。フォー・ユー(あなたのものも買って下さい)。」
とわたしについて回って、何度も言ってくるので、大人用のトレーナー1着も手にとって、レジの所に行きました。すると、今度は男性の店員が、イタリア語で値段を言っているようでした。わたしは、フランス語の基本会話の練習のチャンスだと思って、フランス語を習うときに一番最初に勉強する文を使って話しかけました。
「ジュヌスイパ イタリアーノ(わたしはイタリア人ではありません。)。ジュスイ ジャポネ(わたしは日本人です。)」
すると、男性店員はぼくの言った言葉にうけるくれて、笑っていました。だから、わたしは、さらに続けました。
「ヴゼッ イタリアーノ(あなたはイタリア人ですか)。」
すると、彼はフランス語でお母さんがイタリア人であると言っていました。わたしは、人との会話で遊ぶのは楽しいと思いました。そして、なごやかな気持ちでその店を後にしました。

 パリとの別れの時間が刻々と近づいていました。わたしは、最後にノートルダム大聖堂のあるシテ島にもう一度行ってみようと思い、地下鉄でサン・ミッシェル=ノートルダム駅に行きました。一昨日とはちがい、今日は晴れていて、太陽のもとノートルダムは美しく輝いていました。そして、わたしはノートルダム橋を渡り、セーヌ川沿いに歩いて、両替橋を渡って、シテ島にもどりました。そして、わたしは、コンシェルジュリーの前に立っていました。コンシェルジュリーは、フランス革命のときにマリー・アントワネットルイ16世と子どもたちが閉じ込められた場所でした。そんな恐ろしい場所には見えないくらい、セーヌ川とマッチした美しい建物でした。

 わたしが、
『もうこれでパリとお別れだ。』
と思って、駅に向かおうとすると
「エクスキュズ ミー(すみません)。ドゥ ユー スピーク イングリッシュ(英語は話しますか)。」
と背後から、女の人の声がしました。わたしが振り向くと、2人の外国人女性が立っていました。わたしが
「イエス、ア リトッル ビット(ええ、少しだけ)。」
と答えると
「ウェア イズ ノートルダムノートルダム寺院はどこですか)。」
と彼女たちはたずねてきました。わたしは、
『ラッキー。今度は基礎英語会話のチャンス。』
だと思って、
「ターン ザ ライト オン ザット コーナー(あの角を右に曲がって下さい)ゴー ストレイト アンド ユー キャン スィー ノートルダム オン ザ レフト
サイド(ますっぐ行っくと左側に見えます)。」
と中学英語で答えました。彼女たちはノートルダムが分かるとお礼を言って別れようとしたけれど、わたしはもう少し英会話の練習をしようと思って、
「ウェア アー ユー フローム(どこから来たのですか)。」
とたずねました。すると、
「ターキー、イスタンブール(トルコのイスタンブール)。」
と答えが帰って来ました。そして、
「ハウ アバウト ユー(あなたは)。」と彼女たちが聞くので、わたしは
「ジャパン(日本)。グッド バイ。」
と言って別れました。わたしは中学で習う英語で十分会話が通じるので、6年4組のみんなにも中学の英語をがんばってもらいたいと思いました。

 わたしは、パリの中の日本、イタリア、トルコにふれあうことができ、コスモポリタンになった気分で、最後にRERの電車に乗り、ホテルへ向かいました。午後の電車は、多民族の乗客で混んでいました。わたしは、すっかり日系フランス人になったように、その空間に溶け込んでいました。

 ホテルにはわたしが一番早く到着しました。しばらくすると、次々と同じツアーの人たちがもどってきました。一人旅のパソコン好きな青年telltell。海外旅行が大好きな千葉のピアノの先生、MIKAさん。中学の音楽の先生をしている仲のいい夫婦。モン・サン・ミッシェルにあこがれてツアーに参加した老夫婦と娘さん。早朝からエネルギッシュに自由行動を楽しんでいたお母さんと5年生の少年。このツアーの最年少カップル、しぐなる君。自由旅行を楽しんだ二人組の男性。わたしの荷物を預かってくれた町田市の中年夫婦。いつも無口だった荒川区の若い夫婦。一人で参加した茨城県女子アナウンサー。パリの古本屋を回って来た男性など。集合時間の午後3時には全員がそろい、バスに乗って、ホテルを出発しました。

 「国籍は関係ない。世界は一つ。」と教えてくれたパリよ。さようなら。

(『さよなら モン・サン・ミッシェル』につづく)